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「吾唯足知」な日々


【吾唯足知】とは…『自らを高めるための弛まぬ努力を続けることは大事なこと、そして志半ばでも自らを振り返って成したことに対し満足するゆとりの心を持つことも大事なこと』…と自己解釈。
本来の意味では…『足ることを知る者は貧しいといえども富めり、足ることを知らない者は富めりといえども貧し』…という仏教の真髄かつ茶道の精神を表現した言葉。

ポツポツと綴る、福井在住・Takeuchiによる日常の「ひとりごと」(画像・座右の銘&Blogタイトル由来の龍安寺「知足の蹲踞」)
by Takeuchi
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歴代の北ノ庄城主巡り・後編
北ノ庄城主巡りの前半は、まずは築城主である1代目・柴田勝家と夫人・お市の方と、4代目・堀秀政のお墓巡りを果たしました。
後半も、ウォーキングで巡ります…。

【先に見えるのは、北ノ庄城落城の際に羽柴秀吉軍が陣を張った足羽山。左右のアンテナの間には、新田義貞公の兜を保管している藤島神社が鎮座。足羽山の麓を北へ向かうとすぐに、大きな鳥居と石階段もあります】
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【足羽山トンネル東口のすぐ近くにあるのが、曹洞宗 天女山孝顕寺。北ノ庄7代目城主にして越前松平家宗家初代である結城秀康公の、最初の菩提寺です】
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最初の菩提寺、、、というのはどういう意味か。
そもそも、孝顕寺というのは結城家の菩提寺であり、現在も茨城県結城市には孝顕寺が存在します。
秀康公が関ヶ原の戦いの功により越前入封した際に、孝顕寺も移転させたのです。
そして、秀康公も結城家当主として孝顕寺に葬るよう遺言し、戒名も「孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士」としたのです。
越前松平家初代とはいえ、父・徳川家康には冷遇されまくていたので当然かも知れません。
ところが、冷遇しまくっていた家康も、徳川宗家は継がせなかったものの、関ヶ原の戦いにおける殿を務めた功で越前北ノ庄68万石を与え、これまでの北ノ庄城とは別に天下普請によって新しい北ノ庄城(福井城)を築かせたのは、、、どういう心境の変化があったんでしょうね?
さらに、秀康公亡きあと、孝顕寺に葬られた後に「徳川家一門は浄土宗である」とお達しをして、当人の遺志とは別に改葬することになっちゃったのです。

【とはいえ、徳川家康の次男が最初に葬られたお寺ということで、わずかながらも「葵の御紋」を見かけました…】
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余談ですが、、、この孝顕寺は、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)を討ち取った北ノ庄城8代目城主であり越前松平家2代当主である松平忠直卿家臣・西尾宗次の菩提寺でもあります。
幸村の首塚をこの孝顕寺に建立したんですが、真田家からの奪還を恐れて、本当に首を葬った場所は子孫が一子相伝しているとか…。
ただし、「真田地蔵」と呼ばれた首塚は現在孝顕寺には無く、福井市立郷土歴史博物館が保管・所蔵しています。

【一旦、愛宕坂の駐車場を通り過ぎます…】
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【足羽山の北側を西へ進んだところにあるのが、浄土宗 森巌山浄光院運正寺
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遺言によって曹洞宗の孝顕寺へ葬られた結城秀康公が、父・徳川家康の命令によって嫡男・忠直卿によって改葬されたのが、この浄土宗運正寺です。
戒名も「浄光院殿森岩道誉運正大居士」と改められてしまいました。
わざわざ京・知恩院から満誉上人を招いて開山、当初は浄光院という寺名でした。
戒名と寺名を別にするために、運正寺となって今に至ります。
秀康公のために建立されたお寺だけあって、秀康公の所蔵画や遺品がこの運正寺には所蔵されています。

【あいにく、境内には入れません。幕命建立だけあって、ところどころに「葵の御紋」が】
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【立派な釣鐘もありますが、、、鐘楼は無い模様…】
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【戦前は南にある足羽山へと霊域が広がっていて、素晴らしい光景だったようですが、、、戦災・震災・都市計画で残念ながら…】
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秀康公の墓所が何処かから見れないかなぁ~と、南側の道を歩いていると…

【運正寺霊域で、今は更地のここが将来「結城秀康公 供養塔 建設予定地」になるようです。その日が待ち遠しいです!】
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【運正寺から北へ進みます。高校在学時には、この辺りを通学していたり、部活動で走ったこともありました】
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【赤い鳥居の中にある、曹洞宗 松柏山総光寺に到着。狭い場所にあるこのお寺は、北ノ庄2代目城主にして織田信長の重臣・丹羽長秀公の墓所があるところです】
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【しかし、この場所に墓所は無く、ちょっと東へ歩いて行くと、、、】
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【立派な、丹羽長秀公墓所がありました】
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丹羽長秀公は、言わずと知れた、柴田勝家公と双璧を成す織田信長の重臣です。
数々の軍功を上げ、安土城築城の普請奉行を務めた、オールマイティな武将。
本能寺の変では、堀秀政公と同様、山崎の戦いでも賤ヶ岳の戦いでも羽柴秀吉の援護をしています。
総光寺は、勝家公自刃後に秀吉によって越前入封した後に、自身の菩提寺にするために建立したものです。
長秀公が亡くなった後、嫡男で北ノ庄3代目城主である長重によってこの墓所が立てられたと伝えられています。

三井屋の駐車場のすぐ近くを通り、先ほど訪れた運正寺の看板前を通って、207SWGTiを停めている愛宕坂駐車場に戻ってきました】
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歴代北ノ庄城主の墓所が、およそ1時間30分で巡ることができました。
特に、信長重臣であった柴田勝家・丹羽長秀・堀秀政という歴史に残る武将が北ノ庄に入封していることは、特筆に値します。
ただ、意地悪い見方をすると、結城秀康も含めて「天下人から遠ざけられた…」とも置き換えられる転封なのかも知れません(秀康公は家康から「越前か播磨か、好きな方を選べ」と言われたらしいが…)。
越前というところは戦略的に大事な場所なのかも知れませんが、曇の日が多くて雪が積もってな土地でもありますしね…。
あと、どうやら勝家公・長秀公・秀政公に共通しているのは、「秀吉の覇権によって、織田家がないがしろにしている状況は如何なものか」という思いがあったようで。

妙に暗い話になってしまいましたが、ハッキリ言えるのは、ビッグネームの武将が相次いで北ノ庄城の主になったこと。
これは、福井の者としては誇るべき歴史です。
近いうちに、当の北ノ庄城跡である柴田神社へも訪れてみたいですね。
北ノ庄の地名が福井(最初は「福居」)と改められたのは、越前松平家3代当主である忠昌卿(2代当主忠直卿の弟)の時です。

ここで、アレっっと思った方は素晴らしい。
北ノ庄城6代目城主は誰?
秀吉の従兄弟にあたる豊臣家重臣・青木一矩です。
堀秀治が越後転封になった後に入城しましたが、関ヶ原の戦いで西軍と属して加賀の前田利長と戦った挙句、戦後改易となってしまいました。。。
by chiketa_net | 2011-02-28 22:36 | 越前若狭の歴史
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