「吾唯足知」な日々


【吾唯足知】とは…『自らを高めるための弛まぬ努力を続けることは大事なこと、そして志半ばでも自らを振り返って成したことに対し満足するゆとりの心を持つことも大事なこと』…と自己解釈。
本来の意味では…『足ることを知る者は貧しいといえども富めり、足ることを知らない者は富めりといえども貧し』…という仏教の真髄かつ茶道の精神を表現した言葉。

ポツポツと綴る、福井在住・Takeuchiによる日常の「ひとりごと」(画像・座右の銘&Blogタイトル由来の龍安寺「知足の蹲踞」)
by Takeuchi
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御附家老・本多富正公の菩提寺
休日(サービス)出勤を昨日してしまったので、今日は1日フリーになってしまいました。
何処かへぶら~り行こうかとしたその時に、私と同じ様に職種が変わった前職場の同僚から「ちょっと教えて~」の連絡があったので、久しぶりに鯖江の前職場を訪れた次第。
1時間半ほどの間、未熟ながらも私なりのアドバイスをしたり、雑談をしたりで過ごしました。

職場が変わってから、福井市から南へぶら~りと行く事はほとんど無くなってしまったもの。
せっかくここまで来たのならばと、もうちょっと足を延ばして以前から訪れてみたかった古刹へ向かいました。
福井市と旧・武生市の礎を担った越前松平家の御附家老・本多富正公の菩提寺です。

訪れたのは、越前市内にある曹洞宗太平山龍泉寺
市街地中心とは思えぬ松並木が、参道脇に立ち並びます。
富正公がこよなく好んだ松並木とのこと。
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「第一閣」というのは、曹洞宗の大本山である永平寺総持寺に入ろうとする僧侶にとっては、必ず通らなければいけない「第一の関所」という意味です。
それもそのはず、龍泉寺は総持寺「三十六門中」(筆頭直末寺院)に列する格式高い名刹だったりします。

松並木の参道を進んで行くと、、、元々は府中勘定奉行所の門だったという山門があります。
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境内に入ってみます。
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山門の横には、ちょっと洒落た櫓があります。
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境内の東側に横たう巨大な建物が、明治維新以前から残っている唯一の建物・白雲台(庫裏)。
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本多家の御紋・立葵が輝いています!
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明治維新以降、本多家の庇護が無くなってからは龍泉寺も困窮を極め、この白雲台以外の建物は維持できないということで一旦破却されてしまったのです…。

境内の北、山門の近くにあるのが、、、霊光殿
一階は坐禅堂、二階は開山堂と宝物殿ですが、、、普段は拝見できないようですね。
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霊光殿の傍には、、、龍泉寺が開山する前に、大化の改新の頃にこの地に建立されていたとされる北陸最古の寺院「深草廃寺」の発掘された礎石がおいてありました。
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奈良時代に各国に建立された国分寺ですが、いまだ越前国分寺の場所は府中(武生)であること以外は確定されていません。
しかし、深草廃寺がそのまま国分寺とされた可能性が高い、、、とのことです。

霊光殿の北隣にあるのが、越前東照宮
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扉には、徳川の葵紋、、、「徳崇祠堂」と書かれた額は、徳川宗家16代当主・公爵徳川家達の揮毫。
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この越前東照宮の内部には、富正公が三代将軍・徳川家光に直々に願い許可を得て作らせた、徳川家康・結城秀康・徳川秀忠の三木像(越前市指定文化財)が鎮座しています。
一度、拝顔してみたいなぁ~と思いますね。

越前東照宮の北隣に、何故か稲荷大明神が。
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そして、山門の正面で最も北に、昭和49年に再建された本堂があります。
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寺の名前に相応しい、龍の彫物が素晴らしい。
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本堂には、本尊・釈迦如来像と脇侍・文殊菩薩像と普賢菩薩像が安置されていると同時に、府中領主としての歴代本多家当主の位牌もあります。

稲荷大明神の横から、墓地に行きます。
明治期の武生を支えた名士の墓が並んでいました。
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打刃物の町・武生らしく、「鎌の碑」もあります。
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本多家廟所の手前には、、、明治維新後に、主従関係が消えても永久に廟所酒掃料を奉納する旨を記念に建てられた「護墳の碑」がありました。
いかに、旧家臣や武生市民が本多家を慕っていたかを示す記念碑だと思います。
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本多家廟所の敷地内に入ると、一際巨大な石造の五輪塔が2つ。
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西側にあるのが、人質時代から一貫して結城秀康公に従った第一の臣であり、越前藩の御附家老(将軍から親藩大名へ直々に附けられた筆頭家老)として初代・秀康、二代・忠直、三代・忠昌、四代・光通に仕えた、府中領主初代・本多富正公の墓。
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秀康公が豊臣秀吉の人質・養子の頃から小姓として従い、結城家の養子になった時も、関ヶ原の戦いで上杉方の後詰の陣でも、越前入府の際にも一心同体の如く仕えていたのが、富正公です。
秀康公越前入府の際には、九頭龍川の堤防整備、芝原用水の敷設をはじめとした城下町の整備といった土木計画整備、貫主不在になっていた永平寺の後継問題といった寺社対策、大坂夏の陣における大御所・家康に直接叱責される立場と越前松平軍先陣として真田信繁軍を破っての「大坂城一番乗り」を果たした猛将、忠直卿改易→嫡男・光長の高田移封から弟・忠昌卿相続における混乱時に幕命を受けて治め切った政治力、俵屋宗達などの当代一流の芸術人との交流、越前おろしそばを考案したと言われる人、、、と、隙無しな才能で越前藩(福井市)と府中(旧・武生市)の礎を担った人物なのです。
何せ、秀康公薨去の際には、、、病床の当主の名代として駿府城普請に携わっていたこともあるが、、、家康・秀忠や幕閣から殉死禁止が沙汰されるほどでしたし、忠直卿改易の時には「独立して大名になったら」と幕府に薦められたほどだが、、、秀康公の義理を立てて断ってしまったという人物です(忠直期に同じ御附家老だった従兄弟・本多成重は独立して丸岡藩主になっています)。
余談ですが、、、漫画家・井上雄彦氏の作品『バガボンド』の9巻に登場します(但し、「本田富正」と誤記されているけど…)。

これだけ優秀な人と家を、幕府も一筆頭家老のまま処遇していません。
将軍家から見ると陪臣(家臣の家臣)ですが、、、諸大名並みの参勤交代を行うだけに留まらず、家康直々に行列装備として長刀携帯・駕籠に乗ったままの関所通過の許可を賜り、江戸参府の際には将軍へ直接拝謁ができる立場で「柳の間」の席次(吉良上野介と同じ家格)と江戸屋敷を与えられ、将軍慶弔行事には諸大名とともに列席、さらに授爵も受けると、完全に大名核として処遇されていた稀に見る家でした。
越前藩→福井藩には、家老になれる家格の重臣は「高知席」と呼ばれる17家がありましたが、、、筆頭家老・本多内蔵助家(府中領主)はその上を行く絶対的存在でした。

初代・富正公の墓の右隣にある巨大な五輪塔が、二代・昌長公の墓。
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この2つの五輪塔は高さ約5m、実際に見るとホント圧倒されます。

富正公の墓の左隣にあるのが、三代・長員公の墓。
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長員公の頃(元禄年間)の本多家江戸屋敷は、高家・吉良上野介の江戸屋敷の隣で、、、赤穂浪士が討ち入りした時には、塀の上から行燈を掲げて浪士の行動を暗に助けていたという(堀部弥兵衛の二番目の妻の弟が、本多家家臣という理由もある)話です。

本多家廟所を抜けて、さらに北へ進むと、、、
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龍泉寺開山・通幻禅師のお墓(幻霊の塔)があります。
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南北朝時代の応安1(1368)年に、越前守護・藤原義晴が通幻禅師を招いて龍泉寺を開いたことが、この寺の歴史の始まりなのです。

ガーガーと五月蠅いなぁ~と思っていたら、本多家廟所の木々の上に、鷺の巣があって餌付けをしてました…。
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本多家廟所に戻りますが、、、この廟所はホント広くて、府中領主としての本多家当主全員のお墓があります。
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そして、最後の府中領主・副元公の墓。
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明治維新後、陪臣として士族にされた本多家でしたが、、、旧家臣や武生市民が異議を唱えて「武生騒動」という暴動を起こすほど、本多家は慕われていました。
結果、大量の処分者を出したものの、本多家は華族に列せられて男爵を受爵し、武生の発展に尽力したとのことです。
詩人・野口雨情が『二万石でも武生は城下 紙と 刃物と 式部 そば』と詠んだだけのことがある歴史を育んできたのでしょう。

本多富正公の遺徳を偲んで、一度は訪れたかった龍泉寺。
少々寂れた感は拭えないものの、年に何回かの行事の時は賑やかであると聞いています。
もっと、府中領主・本多家のことを知っていただけたら、、、武生の街の散策はもっと興味深いものになると私は思いますね。

本堂の横を通って、境内を出ます。
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実は、、、続きます。。。
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by chiketa_net | 2012-06-24 20:58 | 越前若狭の歴史
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