東三河の代表都市・
豊橋市を後にして、
三河の車窓を眺めながら名鉄特急で次に訪れたのは、、、
【豊橋駅から2つ目の停車駅・東岡崎駅で下車します】
【東岡崎駅からは、名鉄バスに乗ります】
【バスはすぐに乙川を渡り、駅から北へ伸びる道をひたすら進みます】
【終点の大樹寺停留所で降車です(運賃220円)。えらい立派な停留所かなと思っていたら、元々は市電(廃線)の併用軌道から専用軌道になった直後の駅跡とのこと】
【手づくり?の案内看板に従って歩きます。暑い!】
【鴨田天満宮のところから、石畳のような舗装の道を進むと、、、目的地が見えてきました】
【岡崎市における目的地、
浄土宗成道山松安院大樹寺です!巨大な
山門が迎えてくれます】
【愛知県指定文化財・山門を正面から。黄金の勅額「大樹寺」の文字は、後奈良天皇の御宸筆で国重要文化財】
【山門から、境内に入ります】
【右手にあるのが、県指定文化財・
鐘楼です】
【正面にあるのが、
本堂。堂内に入ってみます】
【巨大な数珠がありました】
【本堂内を参拝するだけならば無料ですが、大方丈・文化財収蔵庫・位牌堂は有料(400円)です。拝観料を払うと、まずは本尊・一光千体阿弥陀如来坐像の前で説明のテープを聴きます】
【本尊の前には、左右の柱に架かる金の板に緑の文字で、「
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の文字。これは岡崎で生まれた徳川幕府初代将軍・家康公が自らの旗印にした文字です】
大樹寺は、文明7(1475)年に、松平宗家4代目(安祥松平家初代)の親忠(家康は宗家9代目)が松平宗家の菩提寺として創建しました。
永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで、当時の松平元康の主君・今川義元が織田信長によって討たれると、織田領の最前線・大高城に在陣していた今川家の人質かつ有力武将の元康は脱出します。
人質とはいえ、今川家によってこの時代最高の教育を受けていて家臣に列していた元康は大樹寺に入り、先祖の墓前で自刃しようとしました。
その旨を当時の十三世住職・登誉上人に伝えると、「
厭離穢土 欣求浄土(苦悩の多い穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土を冀う)」の言葉を授け、戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目、、、と訓示し、切腹しようとした元康を翻意させました。
大樹寺での元康はこの八文字を座右の銘として自身の旗印にし、以後は戦国大名・徳川家康として天下統一を目指す「立志開運」の地となります。
家康公は死に臨んで、遺言のひとつに「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」としたため、以後徳川14代の将軍の位牌は、この大樹寺に安置されています。
【本堂の右側から、有料の大方丈・文化財収蔵庫・位牌堂の拝観となります(撮影禁止)】
特に、松平宗家8代の位牌(高さは揃えてある)と、臨終時の等身大で作られた徳川歴代将軍位牌(「幻の11代」10代将軍家治の嫡男・家基の位牌も含む)は圧巻でしたね。
一見の価値ありだと思います。
【境内の左側(西側)に広がる墓地に入ります】
【境内の南西隅にある国重要文化財・
多宝塔です。家康公の祖父・松平清康が天文4(1535)年に建立した、大樹寺で最も古い建物。小ぶりながらも整った素晴らしい塔だと思います】
【多宝塔の逆側にあたる墓地の北側には、岡崎市指定史跡・
廟所があります。4代親忠が先祖3代の墓を移祭し廟所を創建、家康公が元和元(1615)年にこの場所に建立、二代将軍・秀忠が家康公一周忌の際に整えたとのことです】
【向かって右から、初代・親氏~8代・広忠(家康の父)と、、、】
【左端に、昭和44(1969)年に岡崎市民によって建立された、遺品を納めた家康の墓と碑があります】
こうやって先祖の墓を一同に並べられている様子は、
越前松平家の大安禅寺や
京極家の徳源院と同じく、「先祖あっての今と自分」という敬う考えに基づいているのかなと。
お盆は過ぎましたが、こういう気持ちは常に抱いていたいものです。
【廟所を後にして、墓地を出ます】
【大樹寺を後にする前に、最後の見どころを…】
【大樹寺山門から外に出た直後の道路にある印を見つけて、小学校のグラウンドの向こうにある
総門を確認しましょう】
【この印(山門の真ん中)と総門を結んだ「ビスタライン」の先には、、、岡崎城が見えるのです!】
三代将軍・家光が大樹寺を整備した際、祖父家康ゆかりの地から生誕の地が見えるように城下町を整備したとのこと。
現在の岡崎市もこのビスタライン上に高層建築物を建てることを禁止して、この眺望を守っています。
個人的には、戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)の中では、絶対的に家康のファンです。
革新的な考えと行動力を持た信長も、尊敬に値する存在です。
しかし、どうしても秀吉は尊敬できないんですが、、、その理由は、やはり天下統一を果たした後の残虐性と朝鮮出兵にあります。
関白を継いだ甥・
秀次をはじめ、身内だろうが何だろうが、実子・秀頼への盲目的な親バカからくる粛清は、天下人のするようなことでは無いと考えます。
また、天下統一を果たしても、朝鮮出兵という更なる戦を仕掛けるというのも、愚の骨頂としか思えないんです。
「
厭離穢土 欣求浄土」の考えを持った家康公にとっては、豊臣政権はあまりにも超個人的な政権にしか見えなかったのではないか、だから徳川の天下にしたのでは、、、というのが、あくまでも私的な想像ですけど家康のファンとなっている理由です。
そうでなければ、250年あまりの長期体制を築くことはできないでしょうしね。
【多宝塔を見ながら、大樹寺を後にします】
【ちなみに、すぐ近くにあるR248の「大樹寺3丁目交差点」からも、多宝塔や山門が見えます】
【岡崎市の上水道マンホールのデザインは、、、岡崎城と矢作橋でした】
【相変わらず暑い中、コメダ珈琲店がありましたが、、、涼しいところで
シロノワールを食べたい気持ちを抑えて、先を急ぎます】
【
愛知環状鉄道・大門駅まで歩きました】
【大門駅は無人駅ですが、、、自動販売機で岡崎駅までの切符を買って(270円)、2000系の普通岡崎行に乗車です】
【国鉄岡多線からの第3セクターである愛知環状鉄道は、完全直流電化ですが、、、単線だったり複線になったりな路線。でも、これが第3セクター路線としてオーバースペックを防いでいるのかもと考えた次第】
【中岡崎駅の手前で、岡崎城天守を見ることができました!岡崎城を訪れのは、またの機会に…】
【乙川を再び渡ってしばらくすると、JR東海道本線と合流して岡崎駅に到着です】
【JRのホームへ移動して、313系
快速米原行に乗車します】
【今乗ってきた、愛知環状鉄道2000系を見ながら、出発です。矢作川を渡って、岡崎市を後にします】
【
新快速と
快速の違いは、快速は大府駅とその隣・共和駅にも停車するという点です】
【
大高緑地の隣りを、新幹線と並行して通ります。桶狭間の戦いの際に家康公が在陣していた大高城は、東海道本線を挟んで大高緑地の逆側(南側)にあります】
【名古屋駅まで戻ってきました】
【南荒尾信号場。
鈴鹿サーキットの帰りに特急「しらさぎ」で通った「下り特急・貨物列車専用の勾配緩和別線(下り本線)」とは分岐して、垂井駅経由の下り「垂井線」を通ります】
【「下り特急・貨物列車専用の勾配緩和別線(下り本線)」は、あの北側にある山々の裾野を通っています】
【そして、関ヶ原駅の手前で再び合流します】
【往路の伊吹山は雲で大半が隠れていましたが、復路の伊吹山はほとんど姿を見せてくれました】
【米原駅で、新快速長浜行に乗り換えです】
【長浜駅で、普通近江塩津行に乗り換え。
恵那峡ラジウム温泉に行った時と同様、ツギハギな乗り継ぎとなります…】
【そして近江塩津駅で、新快速湖西線経由敦賀行に乗り換え。この敦賀行、実は、、、「18きっぷ」
2回目・
3回目を行使した上洛帰りに使った新快速湖西線経由敦賀行と同じ列車だったりします】
【朝に出発してから9時間20分、新疋田駅へ戻ってきました!駐車場はまだまだ満車状態、みんなまだ帰ってきてないんですね…】
三河の東西を、ご当地グルメと名刹訪問を目的に「
赤い青春18きっぷ」で巡りました。
疲れましたが、、、充実したぶら~りにすることができたと思っています。
さて、5回目の行使は、何時何処へ行こうかな。。。