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「吾唯足知」な日々


【吾唯足知】とは…『自らを高めるための弛まぬ努力を続けることは大事なこと、そして志半ばでも自らを振り返って成したことに対し満足するゆとりの心を持つことも大事なこと』…と自己解釈。
本来の意味では…『足ることを知る者は貧しいといえども富めり、足ることを知らない者は富めりといえども貧し』…という仏教の真髄かつ茶道の精神を表現した言葉。

ポツポツと綴る、福井在住・Takeuchiによる日常の「ひとりごと」(画像・座右の銘&Blogタイトル由来の龍安寺「知足の蹲踞」)
by Takeuchi
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新春京都巡りとその顛末・三条通&丸太町通編
情緒溢れる祇園新橋を歩き回った後は、歴史に残る大事件に所縁のある場所を訪れてみました。

【三条大橋を渡って、一旦鴨川の右岸へ】
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【次の行き先を迷っているうちに偶然場所を知ったのが、坂本龍馬をかくまい海援隊京都本部を置いた『酢屋』。今回は予定に無かったので、また次回に訪れたいと思ってます】
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【行き過ぎだった酢屋から戻ったら見つけた次の行き先が、慈舟山瑞泉寺
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瑞泉寺は、自身は叔父・豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられて自刃を命ぜられ一族39名はことごとく処刑された(いわゆる「秀次事件」)、豊臣秀次公一族・家臣の菩提を弔うために、高瀬川の開削責任者だった豪商・角倉了以によって建立された寺院です。
高瀬川開削時(慶長16(1611)年)に、偶然「秀次悪逆塚」と刻まれた石が発見されました。
了以の実弟・吉田宗恂は医師として秀次公に仕えており事件の連座は免れていましたが、石が発見された1年前に亡くなっており、徳川幕府に許可を得て宗恂の一周忌に合わせて瑞泉寺を建立しました。

【右に見える本堂が、処刑場の場所かつ「秀次悪逆塚」があった場所に建てられたとされています】
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「悪逆塚」は、先に自刃した秀次公の首を目の前に公開処刑された一族が、ひとつの大きな穴にまとめて遺骸を投げ込まれたところに作られた塚です。
鴨川の中洲だった塚の頂には、秀次公の首が納められた石びつが置かれ、三条通を行き交う人々に晒されていました。
鴨川の氾濫によって塚も荒廃していましたが、高瀬川の開削工事で石が発見されて、「悪逆」の文字を削った上で秀次公の法名「瑞泉寺殿」から寺号を付けられての建立につながったのです。

【豊臣秀次公の墓と、両側に並ぶ処刑された子供・妻妾39名と殉死した家臣10名の計四十九柱の五輪塔。墓域の前には、どれが誰の五輪塔で処刑された順番の説明もありました】
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秀次公の墓の中あたりに、古い四角い石があります。
これが、「悪逆塚」の頂にあった秀次公の首が入っていた石びつです。
両側に並ぶ四十九柱の五輪塔を前にすると、秀吉の残虐行為がいかに凄惨だったかが感じられます。

【墓域の近くにある、秀次公一族の肖像と辞世の句などを紹介した掲示板。本物は瑞泉寺の寺宝となっています】
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『太閤記』には、「京や高野山での悪行が過ぎて切腹を命じた」となっているが、だったら一族根絶やしにする必要はありません。
要は、秀頼公誕生によって家督を継がせたいために、甥の秀次公が邪魔になったための虐殺です。
実際、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは『日本史』において「穏やかで思慮深い性質である」と記されているから、「殺生関白」の渾名は秀吉に意図的につけられたのでしょう。
この「秀次事件」であやうく連座させられそうになった大名は徳川家康のとりなしで助かっており、結果全員が関ヶ原の戦いで東軍に属しました。
昨年の大河ドラマでは豊臣家滅亡は家康の謀略のように描かれていましたが、瑞泉寺ではハッキリと「秀次事件」で親族を粛清したことと「文禄・慶長の役(朝鮮出兵)」における武断派と文治派の対立の、2つの秀吉政権施策が原因だとしています。

この日この時間、私以外にも参拝客がいましたが、誰も言葉を発することなく静かに境内を歩き墓に手を合わせていました。
ここに来ると、残酷な歴史の痕跡を目の当たりにできます。
自然と、言葉も出なくなるのです。
ちなみに、私は基本的に「清洲会議」以後の秀吉は大嫌いですから…。

【瑞泉寺を後にして、三条通に戻ります。以前パチンコ店だった「池田屋跡」は、居酒屋の『池田屋』になってました。以前よりは雰囲気がありますね…】
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【三条通のアーケードを自転車を降りて進んで行くと…】
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【これも歴史の大事件、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の舞台である大本山本能寺、初訪問です!アーケード内に参道入口があるとは思わなかった…】
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【本堂は改修工事中でした…残念。あと2年はかかるそうです】
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【本堂と立ち並ぶ塔頭の間を歩いて行くと…】
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【境内の奥にあるのが「信長公廟」。三男・信孝が建てたものです】
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【隣には、本能寺の変で明智軍と戦い戦死した家臣の墓「戦没者合祀墓」もあります】
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「天下布武」の印を用いて天下統一を突き進んだ「第六天魔王」も、お亡くなりになったら結局お墓になってしまうものなんだなぁ~と思うと、人の一生は儚いものだと感じてしまいます。
もっとも、信長公のお墓はあちこちにあることを考えると、さすがに「戦国の覇王」なんですけどね。
しかし、「本能寺の変」の時の本能寺は現在地とは違い下京区・佛光寺に近くにあったのだが、復興時に豊臣秀吉の命によって今の場所に移転させられたものです。

ちなみに、本能寺の「能」の字は、歴史上あまりにも焼き討ちに遭ってばかりいるので、「ヒ」が2つあるこの字を避けて「去」(つまり左側に「ム」と「月」、右側に「ヒ」2つの代わりに「去」)の字を採用しています。

【本能寺の北側は御池通に面しており、道向かいには昭和初期に建てられた京都市役所本館が威容を放っています。右側にある高い建物が、仏教会と建物高さによる景観問題で揉めた京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)】
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【御池通から二条通にかけて、再び高瀬川沿いを走ります。国史跡である「一之船入」があり、浅い船底が特長の高瀬舟が復元されています】
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高瀬川は、方広寺大仏殿の再建のために物資を運ぶ運河として、豪商・角倉了以親子が一条~伏見の間に開削・開通させた水路です。
そして、現在「保津川下り」として観光資源になっている保津峡も、角倉親子によって高瀬舟を通すために開通させた水路です。
船入」とは、高瀬舟から荷物の上げ下ろしをしたり方向転換をするために、西側に直角に作られた船溜所のことです。
かつては二条から四条の間に9ヶ所(一之船入から九之船入まで)ありましたが、一之船入以外は埋め立てられてしまい、唯一残ったここは国史跡に指定されました。
高瀬舟は、森鴎外などの小説で題材にされているので御存知の人も多いと思います。

それにしても、高瀬川と豊臣家の因縁は凄いですね。
高瀬川開削の結果、豊臣家滅亡の遠因である秀次公一族を弔うために瑞泉寺が建立され、直接の原因である方広寺大仏殿(豊臣家の財力を削ぐため?)と梵鐘(いわゆる「国家安康」「君臣豊楽」の鐘)が作られたのですから…。

【二条大橋を渡って、再び鴨川の左岸を北上します。ちょっと雲が出てきました】
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【前々から食べたくて仕方が無かった、丸太町通にある鶏料理店『京のつくね家』の「親子丼(1360円)」を賞味しました!一言、「旨い!」。お品書きにあった「鴨なんば」も気になりました】
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【親子丼を食べ終わって店を出ると、丸太町通を「全国都道府県対抗女子駅伝」の先頭集団の選手(4区)が走ってくるところでした。せっかくなので、福井県代表を待ち構えて写真撮影、応援しました】
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【復路の7区が戻ってくるまでに丸太町通を東に移動、訪れたのは修験道の総本山・聖護院門跡です】
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最初、敷地内にある宿坊「御殿荘」の方に行ってしまい(この日は都道府県対抗女子駅伝・岐阜県代表の宿舎になってました…)、あれっあれっと巡っていたら2枚目のところから参拝することができました。
しかし、いきなり訪れてもできるのは、あくまでも御本尊の参拝だけしかできません。
江戸時代に2回も仮御所となった聖護院の重要文化財・書院や宸殿を拝観するためには、事前に葉書で予約しなければなりません。
そんな由緒ある名刹である聖護院門跡、今度はきちんと予約して再訪したいです。
今では聖護院の名前は、和菓子の八つ橋や京野菜の大根・かぶの名前の方が有名ですね…。

今回のメイン訪問地に続きます。。。
by chiketa_net | 2010-01-17 22:40 | 京都上洛
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