越前松平家の永代菩提所である
大安禅寺と
千畳敷を、大型連休最後の日に訪れました。
思い付きではなく、行こうと思って訪れただけに、事前に予備知識を調べたものです。
ところが、偶然にも福井藩歴代藩主の霊屋が別目的の建物として散らばっていることを知ったのです。
大安禅寺に行く途中や、拝観を終えた後にちょっと足を延ばせばある場所だったので、前後に訪れてみました。
【まずは、大安禅寺へ行く途中です。福井市堀ノ宮1丁目、白山神社の隣にあります】
【『越之國三十三礼所 第十三番 西藤観音』と刻まれた石碑があります】
【通称・
西藤観音堂と呼ばれるこの建物こそが、実はかつて
運正寺境内に存在した福井藩初代藩主・
結城秀康公の
浄光院廟(安政3(1855)年)建立なのです!】
【敷地内に入れるようだったので、近くでじっくり撮影しました。藩祖・秀康公の霊屋とあって、素晴らしい造りをしています】
【観音堂の向かって左側には、『忠魂碑』が立てられています】
この後、大安禅寺と千畳敷の拝観へ訪れました。
【大安禅寺を後にして、九頭龍川の左岸を走って行くと、、、福井市天菅生町、R416の天菅生橋の下を通ります】
【走ってきた市道とR416に挟まれた狭い場所に、『越之國三十三礼所 第二十六番 大安寺観音』と刻まれた石碑があるここは、、、】
【通称・
大安寺観音堂は、同じく運正寺境内に存在していた第14代藩主・斉承公の
天梁院廟(天保7(1836)年建立)です。西藤観音堂と違うところは、張り出し部分に銅板葺の瓦や前扉が無い(失ったか?)ことです】
【観音堂から、市道側を見ます。ちなみに、西藤観音堂のところにあった石灯籠は、本来この天梁院廟のものとのこと】
14代藩主・斉承は、10代藩主・重昌から続く御三卿・一橋家の血筋です。
故にか、祖父・父同様、贅沢を好んでいたために藩財政悪化を加速した一因となっています。
しかも、彦根藩と領地交代転封を画策して失敗してしまったために、この時の越前松平家と井伊家との遺恨が2代後の藩主・
慶永公と大老・
直弼が一橋派と南紀派として対立する遠因になったとも…。
【大安寺観音堂を後にして、福井市を出ます。先を見ると
テクノポート福井スタジアムの照明が見える、坂井市三国町黒目まで来ました】
【三国町黒目にある浄土真宗高田派のお寺、盛立山称名寺です。実は結構な古刹だったりします】
【境内へ入って行くと、、、左手にあるのが、
称名寺観音堂。やはり運正寺境内に存在していた第15代藩主・斉善公の
諦観院廟(天保10(1839)年建立)です】
【この霊屋は、これまでの3霊廟の中で最もきれいな状態で保たれているように思えます。外壁の朱色も、ほんのり残っているのが確認できます。ただ、屋根瓦に葵紋が無いことから、葺き替えが成されているようです】
称名寺の方が
「どうされましたか?」と声をかけてきましたので、
「福井藩主の観音堂を順番に巡ってきました」と答えたところ、、、
【観音堂の扉を開けて、堂内を見せてくれました!中には、観音像を中心に多くの位牌が…】
【傍らには、屋根瓦の葺き替えで残しておいた葵紋入りの瓦がありました】
15代藩主・斉善は、先代・斉承の正室の弟、、、すなわち、11代将軍家斉公の22男(!)。
でも、3年後に19歳で亡くなってしまいます。
嗣子無く福井藩断絶の危機でしたが、兄で12代将軍家慶公の計らいで、家慶・斉善の従弟である慶永公が16代藩主として襲封することになるのです。
忠魂碑や多くの位牌で、何となく観音堂の意義が分かったことかと思われます。
戦災・震災と度重なる災害で荒廃しきった運正寺が、結果的に境内を縮小・整理せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。
その頃、福井地震で亡くなられた方々の慰霊と復興を願って、震災被害が酷かった当時の福井市・坂井郡・吉田郡に「越之國三十三礼所」を設立し33観音を設置することになりました。
昭和25年、災害で残った3つの霊屋が観音堂として、現在の堀ノ宮・天菅生・黒目の方へ買い受けられて、現在も貴重な霊廟が現存することになったのです。
あとの30ヶ所がどこにあるのかというのはよく分かりませんが、第5代藩主・昌親公(7代再襲・吉品公)の菩提寺である
瑞源寺も、三十三礼所のうちのひとつらしいです。
住宅地の中や、道路と道路の狭い場所や、古刹の境内内に、ひっそりと知られざる史跡とも言える建造物が残っていることを知って、愕然としました。
もし、運正寺が戦災にも震災にも遭わずにいたら、大安禅寺と並ぶ福井市内屈指の名刹としていたかと思うと残念でなりません。
しかし、境内整理で破却されても不思議では無かった霊屋が、震災犠牲者を弔う観音堂として再利用とはいえ現存していることを嬉しく思います。
福井藩の歴史と福井地震後の復興を、3ヶ所の観音堂が静かに伝えてくれていることに感動した次第です。。。