ごしゅりんさんと盛り上がった前日の夜、それから4時間の睡眠で起床しました。
この季節に上洛したら、、、やはり特別公開しているところを訪れたいからです…。
但し、夕方には用事があるため、午後2時には京都を後にしなければいけないので、ほぼ午前中限りという制約の中でのぶら~りとなりました。
【JR京都駅がスタート地点、曇り空に京都タワーが映えます】
【市営地下鉄烏丸線に乗って、降り立ったのは今出川駅】
【この時季に今出川駅というと、「
秋の特別公開」をしている京都御所なんだが、、、今回は烏丸通を行かずに今出川通を東へ】
【この日一番の目的地・冷泉家に到着です!門の前からは…】
【拝観開始時間5分前に着いたんですが、、、行列ができていたのには面喰いました…】
【程なく、開門。表門から順番に入って行きます(拝観料800円)。残念ながら、邸内は撮影厳禁となっていました】
歌聖と仰がれる藤原俊成・定家父子を祖先とする『
和歌の宗家』として、海外にまで『
The Reizei Family』と名が知られている、冷泉家。
初代・為相は、新古今和歌集の撰者のひとりであり歌人の代表ともいえる藤原定家の子・藤原為家と『十六夜日記』の作者・阿仏尼の子です。
800年間、和歌の伝統と、和歌に関する多くの典籍や古文書を守り伝えている名家です。
また、土蔵「
御文庫」には、冷泉家に伝わった貴重な典籍・古文書が収められており、その中には国宝5件・重要文化財47件も含まれています。
「御文庫」の中には当主と嫡男しか立ち入られない、冷泉家としては神聖な場所となっています。
邸宅を含め、伝統を今後も保ち伝えるために、今は
財団法人冷泉家時雨亭文庫となっています。
さて、冷泉家住宅ですが、、、江戸時代、天明8(1788)年の大火で土蔵以外の建物を焼失した後、寛政2(1790)年に再建された屋敷が現在も残り、近世公家住宅唯一の建物として国重要文化財に指定されています。
明治維新後、ほぼすべての公家は明治天皇とともに東京へ帯同・移住しましたが、冷泉家は「留守居役」として京都に住み続けることになりました。
結果、他の公家屋敷・住宅は破却されて
京都御苑として整備されてしまいました。
また、他の公家が所持してきた貴重な典籍・古文書の多くは関東大震災や東京大空襲で灰塵に帰してしまいましたが、京都に残った冷泉家は京都の街並みとともに今に伝えることができている訳です。
京都では主に春と秋に「非公開文化財特別拝観」で普段は拝観謝絶の名所も拝観することができるんですが、冷泉家はいつもそれがある訳ではありません。
今回、11月3日~6日とたった4日間の公開期間に上洛の機会があったため、是非ともと訪れた次第です。
【30分ほどで拝観を終えて、邸宅外の今出川通に出てきました。写真の奥に人だかりが見えますが、これは売店の人だかりです】
【一旦、表門へ。ジックリ見ておきたいものがあるのです】
【表門の屋根の四隅にある、阿吽を対にした亀像瓦。冷泉邸が御所の北に位置するために、四神相応の制にいう「玄武神」を表しているものです】
【もう一匹、門の中央梁の上に木彫りの亀が屋敷を見守るかのように祀られています】
何故、亀なのかというと、、、屋敷を再建する際に亀が見つかって「縁起が良い」ということで、亀が冷泉家の守り神になったようです。
邸内撮影厳禁なので具体的に説明しにくいんですが、、、公家の屋敷という事で、当初は「貴族の豪邸」な想像をしていました。
しかし、実際には
「今日まで、よう頑張ってきた」と個人的な感想を抱くほどの質素な造りの住宅でした。
もちろん、権大納言を極官とする羽林家(大名でいうと尾張徳川家・紀州徳川家)、維新後は伯爵ということで、勅使到着の可能性がある家格なので、そういった施設が残っていることや質素な中にも感心させれる工夫が成されている造りは、唯一残存している公家住宅を見に来た甲斐がありました。
あと、特別公開しているところの多くが行っている京都の大学生による説明も私は楽しみにしているんですが、、、冷泉家では
京都工芸繊維大学の学生諸君が頑張ってくれてました!
以前は写真撮影OKな頃もあったようで、検索すると写真入りで説明をしてくれるサイトもありますので、詳しくはそちらを参照してください。
私は、、、売店で「
冷泉家パンフレット」を購入しましたので、それによって公家住宅と和歌の家の1年を改めて見ることができます。
【冷泉家を後にして、今出川通を東へ進みます。北側には、冷泉家も取り囲んでいた同志社大学をはじめとする
学校法人同志社の施設が立ち並んでいます】
【京都御苑へ、今出川御門から入って行きます】
【この立派な門は、桂宮の邸宅があった時の門です。冷泉家とともに、数少ない公家住宅の貴重な建物】
【今出川御門から南へ進むと、突き当たりにあるのが御所最北の
朔平門】
本当は、、、ふたつめの目的地へ行くために、朔平門から西へ進む予定でした。
しかし、ふたつめの目的地の拝観開始時間がまだまだだったので、一度も踏み入れたことが無い御所の東側へ進むことにしたのです。
【ということで、御所の東側へ】
【御所に限らず、東北隅は鬼門。それ故に角を無くして凹ませている上に、築地塀の屋根裏に
比叡山日吉大社の御使いとされる申(サル)を祀ることで厄除けにしています。ところが、このサルが夜になると抜けだしていたずらを繰り返したので、金網を張って閉じ込めています…。この北東隅の場所が、「猿ヶ辻」と呼ばれる場所】
金網に閉じ込められた木彫りのサルを見る際には、足元の溝は決して跨がないように(皇宮警察のセンサーが感知して、警告放送が流れちゃいます)。
この「猿ヶ辻」で、幕末に攘夷派の急先鋒である公家・姉小路公知が暗殺される「猿ヶ辻の変」があったんですが、、、その頃の「猿ヶ辻」は、先ほど見た朔平門の近くにあった(その後に、御所拡張によって今の場所になる)ために「朔平門外の変」とも呼称されています。
下手人とされた薩摩藩士・田中新兵衛が取り調べ中に自殺してしまったので真相は闇の中ですが、、、当時から金網内に閉じ込められていた木彫りのサルだけは真相を知っているのかも知れません…。
【先を進みます。東側にある立派な門は、建春門】
【ここで、御所特別公開期間に合わせて特別公開している住宅が、御苑の東側にあることを思い出しました。そちらへ向かうべく、大宮御所の北側を通って清和院御門から一旦御苑を出ます】
【清和院御門を出て、すぐ北にある神社が
梨木神社。明治維新に大貢献した三条実萬・実美親子を祀っています】
【寺町通を南下します】
【急遽、ふたつめの目的地にした場所・
新島旧邸に到着です!】
新島旧邸は、同志社の創立者・新島襄と妻・八重(
再来年の大河ドラマの主人公)の私邸です。
明治期に建てられた当時としては珍しい和洋折衷の住宅であり、同志社発祥の地でもあります。
【邸内に入ります(拝観無料)。附属家を横目に、母屋へ】
写真撮影の確認をしたところ、「個人で楽しむスナップ写真としてなら、どうぞ」ということなので、撮らせていただきました。
【玄関から、入館します】
【応接間。同志社創立時の椅子・テーブル・八重愛用のオルガンそのまま置かれていますが、、、午後にオルガン演奏会があるために、長椅子が置かれているとのこと】
【茶室。新島の死後、八重が洋間を改造した「寂中庵」と命名した場所です】
【バルコニーに出てみます。このバルコニーこそ、新島旧邸の特色です】
【書斎。新島が使った机が当時のまま残っていることに感動です。書棚の本は、同志社の学生が図書室のように自由に利用していたとのこと】
【1階の最も東に、風呂場と、日本初期のものの洋式トイレがありました】
【2階に上がります】
【バルコニーを通りながら、寝室や居間を見て歩きます。2階は、完全にプライベートな場所だったそうです】
【明治期のベッドが置いてありました】
【1階に降ります】
【台所。木造だけど、洋風であるのは一目瞭然ですね】
【渡り廊下から、附属家へ。附属家では、新島襄と同志社の歩みが紹介されてました】
【渡り廊下を戻って、明治としては洋風そのものだった外観を見ながら、新島旧邸を後にしました】
ちょっと予定外ではありましたが、新島旧邸を訪れたことはとても意義のある見学となりました。
明治維新後の、教育者と宗教家としての情熱と、大変奇異に見えたであろう欧米流の暮らしを、同時に垣間見ることができたと思っています。
ちょっと前まで封建社会だったことを考えると、新しいことを取り入れることは大変だったことと思われます。
それを貫く意志の強さは、情熱だけだったのでしょうか?
もっともっと大きなものを目指していた結果が、今の同志社大学なんだろうなぁ~と私は考えます。
先駆者は、先駆者足りえる行動をしているからこそなんでしょうね。
【寺町通を、ちょっとだけ北へ向かいます】
後編へ続きます。。。